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カテゴリ:OuiOuiAward( 58 )

 10年前、2009年(平成21年)の夏は、その前の年に引き続いて、岐阜県中津川市、旧加子母村にて生活していました。

 遡って4月、桜の時期が終わるころ、会社の現場ヘルプに呼ばれ太陽熱温水器の撤去をやっていて、脚立から落下して後頭部を打ちました。
 なんとヘルメット着用無し。ついでに落下したところに温水器が降ってきました。
 さすがに落ちた瞬間は記憶を飛ばし、気づいたあとも「これは大けがしたな・・・」と覚悟していましたが、頭部から下はほとんど無事(かすり傷程度は負った)でした。地面が土だったのが幸いしました。さすがに頭部を打って挫傷したので病院には行って脳波とか取りました。気持ち悪くもなったのでちょっと怖かったな・・・なんで自分で運転して帰ってきたんだろう・・・2,3日様子を見ましたが特段悪くもならず復帰できました。
 あれから誰も僕をヘルプに誘わなくなったな・・・かなり法令違反なことをやっていますが、10年前かつ以前の会社のことなので書き残しておきます(労災は出しました。そのあとが面倒だった)。

 頭を打って馬鹿になったことを知ってるはずなのに、今度は社命で技術者資格を取れと言われて、7月に3日間の講習会に参加しました。中津川から離れて岐阜市で。2泊しました。講義はほとんど聞いていない(寝てた)。

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 ちなみにこの時(2009年7月22日)日本の一部で皆既日食が見られました。
 皆既日食が見られるといわれていた地域のうち、硫黄島付近ではくっきりと、喜界島でもうっすらと日食が見られた一方で、トカラ列島の悪石島は悪天候でたくさんのテントが飛ばされそうな悲惨な光景がテレビに出ていました。僕は講義中に部分日食だけみました。ただの薄暗い時間だったな・・・資格は秋に受験だけしました。


残暑御見舞い申し上げます2009

 また自宅ではミニひまわり栽培に情熱を傾けていました。2009年は梅雨明けが遅かったのですが、夏空に咲くひまわりは輝かしかったです。自己満足。
 あと、痩せてたな・・・70㎏を切る程度でしたが、それでもずいぶん頑張った。現在は池中玄太に並びました。誰や知らんわとか言ってるのは若い人なんだろうな・・・。

 この年は、甲子園で県立岐阜商業高校(県岐商)がベスト4まで進出するという珍事もありました。今年岐阜県代表は中京学院大中京。もう中京商業に戻したほうがいいんじゃないか・・・?もちろん僕は信州の誇る飯山高校を応援してますが、仙台育英なんだよな・・・中京は知らん。

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 そして思い出したくもない(でも忘れてはいけない)8月末の民主党による政権後退。僕を含め多くの国民が過ちを犯しました。学生のころから二大政党制の存在を是としてきましたが、民主党のせいで所詮理想を超えないわなと思わされました。考え方が似通った政党だと大連立になりかねないし、どの政党に託していいものか、昔も今も迷います。
 
 

 2年目の加子母生活で、僕自身はこのムラ暮らしを満喫していましたが、諸事情あって翌年早々中津川市内の別の場所に引っ越ししたため最後の夏になりました(そのあとも頻繁に帰省していますが)。加子母は典型的な山間部、雨の多い地域ですが、晴れた日は青空が広がって爽快です。田舎だから電線が少ないし。
 ちょっと長めの林間合宿みたいで、楽しかったです。

8月もあと残り1週間


by OuiOui1974 | 2019-08-08 19:08 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
 10年前、というと2009年(平成21年)のことになります。昨年から引き続き(岐阜県)中津川市加子母という場所の妻実家を間借りして住んでいました。
 その加子母という地域がどんなふうかというと、


日生のおばちゃん今日も股

 冬はこういうことが当たり前。豪雪地帯ではないけれど、結構雪国っぽくなります。今住んでいる飯田よりは、山沿いということもあって降雪量は多めです。

 奄美大島から離れて、新しい場所、新しい職場に移って1年経とうとする頃でした。仕事に少しずつ慣れ始め、決して生活が豊かだとは言えなかったものの、心の余裕ができてきました。
 奄美にいたころは転職に悉く失敗して今回も心配で仕方がなかったのですが、その割にはそんなに頭を悩ませることはなかったな、と思います・・・と書いていて「いや、そうでもなかったな」とか思い出すことがいっぱいでした。なんといっても社内での壮絶なバトル・・・はまあいいか。引継ぎがちっともうまくいかなくて正直参りましたが、仕事量がそんなに多くなかったのが幸いしました。それでも過去資料から仕事を推測する作業は、なかなかスリリングでした。
 
 あと、2009年は花粉量が凄まじくて死にそうでした。しかも岐阜県と長野県の境、いわゆる木曽周辺はヒノキの生産地で針葉樹ばっかり。引っ越し当初はあまり気にしていなかったけど、かふんさんには参りまくり。その点奄美大島は花粉症の心配がほとんどなくてパラダイスでした。


2009年4月10日

 岐阜に戻っての桜は2008年に続いて2度目。いいものですね。

 このあと春が通り過ぎようとするころに丸刈りにして、その直後工事の手伝い中に転落するというハプニングもありました。それはまた覚えてたら書きます。

by OuiOui1974 | 2019-03-05 19:26 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
このブログで使っていない写真を出してみます。


2018年2月24日

10年以上やっていたホームページでは
散歩日誌的に、カメラで近所を撮って載せていました。
本当にどうでもいい風景ばっかりでくそつまらん感じでしたが
当の本人は楽しんでやっていました。
その流れは、今でも変わりません。
最近ではグーグルマップなどで簡単に町の写真を見られるので、珍しい風景でもなくなりました。
なんかさっきからネガティブなことばかり書いてるな・・・今日酒が飲めなかったんです。


2018年5月20日

それでも、晴れて青空が広がった日は、写真も撮りたくなるし
見てくださる方と気分を分かち合いたくなります。
分かち合うって70年代的な響きがしますね。歌声喫茶で連帯する感じ。ずいぶん違うわな。


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あと、公園の緑も好きです。公園でなくてもいいけど緑が好き。
寝っ転がりたいけどワンワンの聖水が染みてるので無理です。
この場所は、写真を撮る1か月前は桜が満開でした。
桜もいいけど、若葉のほうが僕は好みだあね。


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あんまりここでは書きませんが
本当は「DTM(デスクトップミュージック)」を趣味にしたいんです。
だけどこれまた知識ないし機材を買うほど熱もないしで、いつも先っちょで萎んでいます。
高い模型セットを買って見事に失敗して引退したらDTMに切り替えます。
まあ続かんね・・・。


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あと、旅行も行きたいのですが
首都圏の郊外に行って街並みを眺めてみたい。
どの場所が適当か分かりません。多摩なのか横浜なのかサイタマなのか。
最近ずっと歩くのもへこたれるようになってきたので
郊外を歩くための体力づくりをしないといけません。スタミナUP&体重減らし。


これら数枚の写真は本年、2018年に撮ったものです。
もっと紹介したいところですが、本当にどうしようもないものばっかりで
割愛しました。
カメラ好きでもない人間の撮るものとはいえ、
たくさん撮って、少しでもこちら側の雰囲気、温度が伝わればな、と思うので
来年も紹介したいです。

by OuiOui1974 | 2018-12-19 21:37 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
 今年も色々ありました。


2018年3月3日

 姪の早世が一番のできごとでした。周りが悲しむなか、僕ぐらいは気丈に・・・と思っていて、回りを支えることに腐心しました。どう振舞うべきか、常に考えさせられました。
 確か冬季五輪の終わりと同じ頃に旅立ちました。ですから、アサハラが刑を執行されたとか、西日本で豪雨災害があったとか、北海道で地震があったとか、大坂なおみが全米OPで優勝したとかも知らずにいってしまいました。空の向こうに集会所があったとして、そこで有名人と出くわすことがあれば、さくらももこを見かけてびっくりするかもしれません。そういえば姪が可愛がっていた犬(ダックスフンド、通称うんこみみ)も後を追いかけていきました。ちゃんと散歩に連れて行ってほしいです。
 僕の父と母も・・・いやこっちは生きていますが、母は要介護となりホームに入所し、父は腸閉塞で入院と、それぞれ受難を迎えました。帰省の際の気がかりが増えました。
 僕とツマは、今年は大きく体調を崩すことなく過ごせました。増量気味なのは懸案事項。


スズキハスラーFリミテッドⅡ

 4月に車を買い替えました。スズキのハスラー。正面(特に停車時の信号)が見辛いのとやたら揺れる以外は、まあまあです。最近の軽って高いね・・・5~7年は乗りたいけど、飽きるかも。


2018年10月7日
 
 今年は自治会活動がてんこ盛りで、日曜日の休みもずいぶん潰れました。ここまで使役されると知っていたら絶対家持ちにはならなかったはずです。アパート暮らしはそういうところはよかったな・・・とはいえ、他の町の人とも知り合いになったり話題が増えたりで楽しかったのも事実で、多くの糧を得ることはできたと思います。
 来年は公民館担当から外れることができそうなので、少しはラクしたいです。


2018年10月13日

 忙しかったこともあって旅行も大したところには行けず、一番遠いところで静岡(それでも隣県)でした。
 静岡も通過ばっかりで泊まることがなかったので、いい経験でした。


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木製模型「芝居小屋」

 模型作りは2個。丸子宿と芝居小屋。手間がかかっているわりに地味です。来年はメジャーな建物か、帆船模型に手を出してみたいです。

 当たり前のことを書きますが、2018年から見て、2008年は10年前、1998年は20年前、1988年は30年前、ということになります。時折10年前の記憶と題して振り返っていますが、20年前、30年前もそんな昔のこととは思えません。一方でその記憶も風化しかけており、いまのうちに断片を拾って貼り付けるように、ここで綴りたいと思います。
 平成最後という言葉が氾濫しているなか、僕も四捨五入40代は今年までで、来年早々にアラフィフになります。顔を写真で撮ってみるとどうみても初老の男です。上手に年をとっていけたらいいのですが。

 この1年は受難もあり忙しくもあり、軽い試練を与えられた時間を過ごしたと思っています。もちろん来年以降も受難と繁忙の日はきっとあるでしょうから、それは経験として蓄積していきたいです。


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by OuiOui1974 | 2018-12-15 19:20 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
 いつもなら10年前を思い出して書くことはやっていますが、今回はさらに前、20年前、1998年(平成10年)のことを、思い出せるだけ書き残してみようと思います。
 今回は仕事の話。

 
 当時僕は尾張旭市(愛知県)に住んでいました。一番最初の会社、書店に勤めて3年目、同年2月に開店した隣の瀬戸市にある支店で勤務していたころです。2F建てで120坪程度の、比較的小さいお店でした。売上もあまりよくなかったなあ。
 仕事は朝8時過ぎに出勤、残業等を含めると19時くらいまでと、昼勤務として13時から22時までのシフトで入っていました。いつ休みだったかあまり覚えていませんが、確か毎週金・土休みだったような気がします。

 正社員は店長と僕の2人、あと時間社員の方が10人(交替勤務)くらいいました。僕が3年目ということでそろそろ上(店長、それに準ずる管理職)を意識しなければなりませんでした。それでも僕が3年経っても適当だったこともあって店長には毎日のように叱咤されました。さすがに自分のせいとはいえ、店長に駄目だし食らってるんだな俺は・・・と憔悴するばかりでした。
 じゃあ僕はとんでもなく駄目社員だったかというと、まあ自分ではそう思っていますが、「商品知識はまるで駄目だが人を使って仕事するのはそんなに不得手ではない」という評価をもらっていました。単にお喋り社員でパートさんたちと何でも話していたのが、ひとつのコミュニケーションになっていたのかもしれません。商品知識は本当に無くて、言ってしまえば「本屋なのに本がそんなに好きではない」ぐらい致命傷モノでしたが、それでも特に担当だったコミック(マンガ)は店長に教えてもらいながら知識から仕入れまで勉強させてもらいました。
 駄目なりにいろいろ工夫もしました。理工・コンピュータ関係の担当のときは発注サイクル・ルールとかを自分で決めて商品構成を見直したりPOP広告も書いたりで、「手間をかけずに売れる棚を作ろう」と努めたこともありました。お店自体が売れなかったので知れている、とはいえ理工コンプ部門の売上げが伸びたときはうれしかったです。

 それでも、僕には何某か穴が多くて、1年半程度勤めたこの店では、店長にトコトン叱られました。もう叱られた記憶しかない。正直この野郎とか思ってた・・・でも、僕のいないところ(本部の会議)とかで、店長が僕のことを「あいつは商品覚えればいい店長になれると思う」と言ってくれてたらしく、目の前ではさっぱり褒められなかったけど、その裏情報を信じて、なんとか喰らいついていました(当時僕は20代前半だったので、体力もあったのだと思う)。
 あと、毎日クソ店長とか思ってたのに休みは希望通りくれたし僕がこの年結婚して10日くらい休んでも全部代わりに出勤してくれたしで、恩義のほうが圧倒的に多かったです。

 今になって思えば、叱られて悩んでいることが自分の腕を(少しだけど)磨くことになっていたのだと思います。もっともすぐに力を発揮できたわけではなく暫く苦労しましたが、それらも含めてよい体験をしたと思ってるし、店長には感謝しかありません。キャバクラ通いは続いているのでしょうか。これは別の社員から聞いた話です、たしか。


 そんなわけで20年前は勢いだけで仕事していましたが、いっぽうで私事では前述のとおり結婚という人生の里程標を通過することになります。その件についてはまた改めて。
 離婚はしたこと無いので現在のツマのことになります。ゴリラ100%。

by OuiOui1974 | 2018-09-12 19:44 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
 奄美大島から岐阜中津川に戻って5ヶ月、少し生活が安定し始めたところで、泊まりの旅行でもしようかということになりました。
 選んだのは長野県諏訪地方(諏訪市・茅野市・富士見町など)。その2年前まで短期間ながら仕事をしていた場所です。働いていたときは車も無く、殆ど遊ぶことはできないままでした。信州らしい場所を巡ることと、単身で生活していた場所をツマに紹介しながら思い出めぐりをすることを目的として、7月下旬に出かけました。

霧ケ峰高原

 梅雨明け直後ということもあって、天候には恵まれました。諏訪湖周辺はとてつもなく暑かったのですが、峠を上って向かった先、霧ヶ峰(車山肩)は涼しく、ニッコウキスゲなどの植物群落を眺めながら歩きました。


霧ヶ峰高原

 僕は子供のころから高原広がる場所に憧れていて、そんな場所の多い信州を旅したいと思っていました。その後長野市や松本など、県内の都市には何度か行ったものの、自然豊かな場所を訪れる機会は少なく、霧ヶ峰のようなところは初めてだったかもしれません。奄美大島で海を見たときと同じくらい、高原の広がりに感動したことはよく覚えています。

 その後山を下って、原村を経由して富士見町へ。
 僕は2005年(平成17年)10月末に諏訪市に一人でやってきて、翌年1月末に富士見町に移り、7月上旬まで過ごしました。
 その富士見を車で移動しつつ、ツマに勤め先の工場の寮、近所(といっても自転車で30分)のスーパーなどを紹介して、その時の話なんかを勝手に喋っていました。
 そのほとんどがロクな話じゃなくて「仕事に行きたくなくなった」「寒さもあって胃が痛くなった」「全然眠れなかった」ばっかりでした。せっかく憧れの信州で暮らしていたのに殆ど極北の強制労働みたいな雰囲気で辛かった、しかも1人で。ツマを奄美に残して、馬鹿なことをしたものです。

 いつでもそうですが、辛かった記憶を思い出して、それを話せることは幸福なことだと思います。本来、辛い記憶は無かったことにしたいとか、蓋をしておきたくなります。富士見のときのような工場勤務はもう御免ですが、それでも実りある出来事はたくさんあって、時間の経過でさらに美化されたのかな、と今は思います。
 
 飯田に来て7年近くになりますが、同じ県内、同じ信州といっても諏訪・富士見は今でも特別な場所です。最近はずっと行っていないので、また足跡を探しにいきたいです。


一皿105円を満喫する勇者

 ちなみに富士見町から諏訪に戻ったあとの夕食は、当時人生初のかっぱ寿司でした。昔は向かうところ敵無しって感じで食べられたんだがなあ・・・。

by OuiOui1974 | 2018-07-26 19:57 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
 2008年(平成20年)3月に岐阜・中津川に帰ってきて、早くも復帰2度目の転職となったのが5月の連休明け。
 一つの会社の専属事務職は初めてで、税理士事務所勤務経験があるとはいえ、ちゃんと勤まるかなあ??と思いながら緊張の続く日々が始まりました。
 今回は勤務が朝8時から17時。残業は殆ど無し(ごくたまに会議だったり書類作成などで1時間程度残ることはありました)。土日祝日は休み。(これは後からですが)有休も完全消化。もう、超絶ホワイトでした。ただし給料はそれなり。だけど奄美にいたときのことを思えば十分生活できる額でした(奄美は一番最高で17万くらいだった)。
 そんなわけで、社会人となって10年以上来、一番時間に余裕のできる「幸福な生活」がはじまりました。もちろん学生のときのほうが時間はあったけど、お金とのバランスで行けば、この2008年~2011年の期間がもっともラクな生活でありました。

 職場は中津川市の市街地、間借りしているツマ実家はそこから40km近く離れた旧恵那郡加子母村(2005年に中津川市に合併)。
 朝6時に起きて支度をととのえ、7時に家を出ます。7時40分くらいに会社に到着して始業。
 そして夕方17時になり、だいたい5分かそこら経過するところで退勤します。帰りのほうが車が多くて一時的に渋滞しますが、それでも18時前には帰宅します。
 ツマが当時下呂市の職場で昼夜勤務だったので、食事は義母と私の2人でとります(義父はやはり下呂市で昼夜勤。僕以外働きアリの家だった)。家の手伝いとかも何もせず、夜もやりたい放題でした。21時くらいにはツマも帰ってきて、22時半ごろにどちらも寝る、という毎日でした。


ど田舎をポスターにする・その1

 休みの日も全く手伝いをせず、地区の清掃や行事ももちろん不参加で、あの居候は一体なんなんだと村でもウワサになっていたはずです。今になって思えばしまったなと反省はしますが、当時はどこ吹く風というか、まったく気にも留めていませんでした。
 仕事を始めて最初の頃は経済的にも余裕は無く、休みの日もせいぜい中津川や下呂などに行くか、家でグダグダと本やマンガ、インターネットにうつつを抜かす程度の過ごし方でした。
 日曜日など、ツマが日中仕事でいないときは「これで昼飯でも食え」と1,000円渡されていました。その1,000円と、いくらか自分の手持ちで、近所のスーパー(車で15分かかる)でパック寿司とビールを買って、日曜の午後を過ごすのが楽しみでした。「千円パーティー」と僕は呼んでいましたが、当時オジサンたちの中で流行った「センベロ(立ち飲み屋などで1,000円でベロベロになる)」に感覚は似てるかなと思ったりします。

 先に書いたとおり、僕は村の衆がどう思おうと気にしなかったので、近所をよくほっつき歩きました。出身者であるツマは少しは目を気にしていたようですが、僕にとってはこの田舎暮らしをとても気に入っていて、花とみどり、川の流れにある様々な色を探して昼も夜も散策しました。


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 やがて仕事も軌道に乗り始め、お金が手元に残るようになると、中津川市よりも外の町にも遊びにいくようになります。それはまた別の機会に思い出すことにしますが、それでも家で休みを過ごすときには、歩くことを楽しんでいました。ゴルフやパチンコに行くとかそういう遊びをしなかったのがいいのかどうかはともかく、自分なりの時間の過ごし方ができたのは、それまでの不安定な精神状態をずいぶんと落ち着かせてくれたんじゃないかな、と思っています。


by OuiOui1974 | 2018-04-21 18:12 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
暮れの春


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加子母


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福岡町


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2008年5月31日


 中津川市(加子母・付知・福岡)と、下呂市宮地の写真です。すべて2008年(平成20年)3月~5月より。
 今住んでいる飯田よりもずっと田舎で、それでも花やみどりがいっぱいで、とても気に入っていました。

by OuiOui1974 | 2018-04-04 20:20 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
 岐阜・中津川のツマ実家に居候するようになったのが2008年(平成20年)の2月末。その当時は、あくまでも仮住まいのつもりで、ある程度経ったらまた別の場所に移るつもりでした。
 その頃は、なんとなく長野の駒ヶ根を思い浮かべていてあれはなんだったんだろうと思うのですが、結局今こうやって同じ南信地域の飯田に住んでいるあたり、おぼろげに真剣(?)だったのでしょう。


 さて、中津川にきて、どちらにしろとりあえず仕事、ということでハローワークの情報なども見ていたわけですが、「まずは以前もやっていた工場の仕事なんかはどうか」と家族に言われ、その3年前にお世話になった派遣会社に紹介してもらい、機械組立の仕事(期間工)をやることにしました。
 平日の朝勤(6:00~14:45)、夜勤(14:45~23:30)の週交代制。自動車のカーナビを組み立てる工程で、何か貼ったり取り付けたりをしていたはずです。それをひたすら繰り返す。正味7時間くらいだったか。
 前の職場では半導体のテスト作業をやっていて、あれはテストの種類がたくさんで時間に追われることが多く、けっこうしんどかったけど最後のほうはそれほど嫌々ではなく仕事できていました。
 それに比べて、このカーナビの職場はやることが限られていてしかも作業スペースが畳1枚くらいしかなくて、とても窮屈でした。もともと集中力が持続せず、ウッカリが多い人間なので、何度聞いてもミスするし、さして年齢も変わらない先輩からど叱られるしで、入って数日でやる気が目減りしていきました。
 休憩の食堂もグループで固まっていて(ベテラン組とか、外人組とか)別に一人飯は嫌でもないけど、談笑する集団に囲まれて静かにするのはかなりきつかったです。

 入って10日目の夜勤、一工程を飛ばすミスをして例のごとく上長に問い詰められ、うまく言い訳できないとさらに糾弾されて、ああ、こりゃもう無理だなと思い、休憩中にツマにメールで「ごめん無理」と伝え、なんとかその日は勤務終了まで居座りましたが翌日朝、派遣会社の担当に「嫌なんで辞めます、もう行きません」と言って辞めさせてもらいました。
 派遣の担当さんにはその数日前に「ちょっとついていけない」と相談したことがありました。今回やっぱり辞めると伝えて「お前ふざけんなよ」とか言われるかと思いましたが、慰留されつつも色々宥めてくれて、最後まで誠意を感じる対応をしてくれて、工場は最悪でしたが派遣にはそういう気持ちも持たずに辞めることができました。

 自分に合う仕事かどうかはやってみないと(そして続けてみないと)分かりません。今回だって職種は違えど工場勤務は経験があって、なんだかんだ言いながらもできるだろうと思っていました。仕事に自分を合わせることも肝心だと今でも思いますが、この組立仕事ばかりは例外でした。なお、この工場は2008年冬期以降、不況の影響で派遣・請負社員の雇用を打ち切ったそうで、どちらにしても僕があの工場で生き残る術はなかったはずです。
 販売、配達、講師、事務、そして工場と、社会に出て10数年の間に様々な仕事を経験して全て失敗し、もうどうしようかと思ってしまいました。次の仕事、あるのかな、と。ただそんな僕にもツマ実家の人々は「まあ、焦らなくてもまた仕事を探せばいい」と言ってくれて、本来なら「早く飯代払えボンクラ居候が」と思うだろうに、とりあえず引き続き食事を出して寝床を使わせてくれて、感謝するほかありませんでした。

 実は僕自身、退職の焦りよりは苦痛な仕事から避けられてホッとしていて、そんなに落ち込まずに済みましたが、記録によると退職を届けた当日にハローワークに出かけ、求職票をもらい応募しています。十分焦っていますね。結局その応募した設備業の会社に入社することになりました。工場を4月23日に退職して、5月の連休明けに転職したので、今回は無職期間が半月程度で(僕の中では)短いほうでした。

 心身のバランスを崩して2003年から2008年春(ほとんど奄美大島移住期間)不安定な暮らしをしていましたが、このころようやく長いトンネルの終りが見え始めてきた、という感じでした。

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 これはその工場勤務2日目くらいに、駐車場へ戻る道にあった桜(当時の携帯の画像が残ってた)。


by OuiOui1974 | 2018-03-27 19:59 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)
平成20年2月28日、この日はそれまで4年半生活した奄美大島から離れた日でした。
前の日に借家を引き払い、奄美市内のホテル(確かニュー奄美)に宿泊、
翌日チェックアウトしたあとツマが職場でお世話になった方に車に乗せてもらい
空港のある笠利町の奄美パークで食事。僕は油そうめんを食べました。

油そうめん

飛行機の時間まで、どこだったかの海岸(失念)に行きました。
空港に着き、搭乗時間になると、ツマの他の職場仲間がお見送りに来てくれていました。
僕は奄美を離れる日と時間を言わなくて、メールだけで済ませていましたが
見送りの方に囲まれたツマが羨ましくて仕方がありませんでした。

13:00過ぎの大阪行きの便で、奄美大島を離れました。
あれ以来、飛行機にも乗っていないし、奄美にも一度も遊びに行っていません。
奄美大島での時間は、あの場所で止まっています。

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大阪空港に着いたあと、モノレール、地下鉄を乗り継いで新大阪駅へ。
そして新幹線で名古屋まで。2月28日は、名古屋駅前のホテルに宿泊。
その前の年に宿泊した小さいホテル(部屋も小さい ベッドも小さい)でした。
夜寝るとき、島の仲間と別れたことを実感したのか、ツマがすすり泣きをしていました。


奄美で何度目かの体調を崩して仕事を辞め、そのあと2ヶ月間、退去するための準備をするほかは
ただただ、時間が経過していくだけで、
しかし早くここを離れたいと思うようになっていました。
それだからか、奄美から離れ、大阪に着き、名古屋にまで戻ったときは
ぼんやりながらもホッとしていたと記憶しています。
自分の数々の失敗をどうにも頭で整理できず、働くことも適わなくなり
もう俺どうしようもないなと思うしかなくなっていました。


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2月29日、名古屋からJRで戻ったのは
僕ではなくツマの実家のある岐阜県中津川市。
中津川での新生活がはじまった日でした。


by OuiOui1974 | 2018-02-15 20:57 | OuiOuiAward | Trackback | Comments(0)