男女、LGBTQ、外国人など、マジョリティと隔てることなく共存すべき社会が意識されるようになりました。部落問題ですら解決されていなかった昭和期に比べるとずいぶんマイノリティへの理解が進んでいるのかなとも思いますが、当事者からすれば未だ共生の道は険しいと感じておられるかもしれません。
ところで、どうして差別はダメなのでしょうか。男らしさ女らしさを保て、同性愛は気持ち悪い、チョウセンやチンクはやばい、など、公に発言する人は殆どいなくなったはずですが、みんな本当に心を入れ替えて「これからは共生社会だ」と思えているのでしょうか。かなりタブー視される話かもしれませんが、少なくとも僕の中では綺麗に割り切れていません。
なぜ差別をしてはいけないかと問われて、「差別をしたら周りに何を言われるか分からないから」と答える人は少数なのでしょうか。「現代の法の考え方(法の精神)にそぐわない差別は社会を乱す」「国際標準から外れた考え方が主流では、我が国の孤立を招く」それらは確かに正しいと思います。ただ、裏返せば「決まりがあるから」「諸外国の批判を躱すため」という、消去的な理由で差別をしないようにも見ることができます。
多くの理性ある人が「何を言われるか分からないから」と差別しない社会を受容するなか、今までと同じ感覚にいる人も少数ながら存在するわけで、まあ空気を読めないというか自戒が足りずに、差別的言動を繰り返して問題を起こしてしまうのでしょう。ただ、その差別をしてしまう人達が根本的に悪なのか、というと、僕は違うと思います。人を傷つける言動は厳かに慎むべきですが、「差別はなぜいけないのか」を心から納得しないまま世に従うのは、少し無理があるように感じるのですが・・・。
「周りと違う意見を言いにくい」、だから今までと同じ流れを許容してしまう潜在的な力として、最近「同調圧力」という言葉を聞くようになりました。少数や個性的な意見が尊重されにくい、という、どちらかというと体制に抗う側が主張するキーワードだと思っているのですが、いっぽう「差別はなぜいけないのか」突き詰めて同意できるようなコンセンサスを得られていないのに、持続可能だとか共生社会という「フタ」によって有耶無耶にされているように思えてなりません。これは同調圧力ではないのでしょうか?
僕自身、性差や外国人への偏見は解消できていません。女性やマイノリティに対して知らなければいけないことがまだまだあると思いますが、反射的な振る舞いも含め淀みなく「彼らを傷つけることは絶対しない」とは言い切れません。行く行くはこんなことを考えなくてもいい自分になりたいですが、今ある疑問、「なぜ差別はいけないのか」を適当に扱うことなく考えていきたいと思います。