2021年 03月 08日
意見の相違は人格の批判合戦であってはならない
たとえば社会の在り方に関して、僕はおそらく保守主義と言われる立場にあるだろうと思っています。保守とは何か、という定義づけをここで再確認するつもりもなく、ただなんとなく保守なんだろうなあという程度かもしれません。そもそも生まれてきてから一貫して保守側だったとも言えず、右左でいえば大学生のころは極右だったし、無職だったり低収入だったころは中道左派だったりしたこともありました。
未来どういう立場になるか、分かりません、今がおそらく「右寄り」の保守なんだろう、と。だから、自分と異なる見方をされる政党や団体、個人の意見を聞いていると、大なり小なりの違和感を覚えることが多いです。時には「いやあんた違うよそれは・・・」と反論したくなるときもあります。最近は全くしませんが。
意見は違っていてかまわないんです、むしろそれが当たり前ですよね。いずれ僕(の考える方向)が誤っていると気づかされる可能性だってある(もちろん自分が正しかったと思いたいところですが)、様々な角度の見方に触れてどの意見と合うか、異なるか、僕自身が問われたらどう答えるかを考えていけたらと思うのです。
ところが、意見の相違に対する反論が、特にSNSなどでは本質から離れた人格批判だったり罵倒になっているのを散見します。直接目の前で言えないような「バカ」「死ね」をよくもまあ連呼できるものです。別に品行方正ぶっていうわけじゃなく、あれって何なんだろう?って疑問にしか思えないのです。それじゃあ保守だかリベラルだか知らんが、お互いをけなすだけで、何の深みも生まれないだろう、と。
中日新聞に載っていた東浩紀さんのインタビューにこんなことが載っていました。
「・・・私たちの社会はいろんな考えの人が集まっています。間違っていると感じる考えもあるでしょう。でも、それを攻撃するのではなく、互いに少しずつ理解し合い、地道に正しい方向に導いていくことしかありません。それこそが、世界を友と敵に分けて考える友敵理論というウイルスに対する思想のワクチンなのだ、と僕は思います」
ワクチンという言葉がありましたが、現在も、コロナウイルスに限らずワクチン接種の有効性と薬害について様々な見方があります。一部の有識者・関係者や興味を持つ人だけの話にならないよう、問題を俎上に載せ、幅広く意見を交わさなければなりません。
そのためにも、まず矛を収め膝を突き合わせて冷静に話を聞く姿勢、それこそが肝心なのではないか。相手を論破してやろうなどと思わなくていい。「バカ」「死ね」なんて以ての外です。
今、意見を、力を合わせないでどうするんだよ。
by OuiOui1974
| 2021-03-08 20:29
| 目に付くものを見て
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