2011年3月9日(水)~3月15日(火)の1週間、僕は「縦隔腫瘍」という、肺の近くにあるデキモノを取る手術のため入院しました。場所は岐阜県の県立多治見病院。
おおまかに日程・経過を書くと
9日(水):入院 特別な処置はなし 4人部屋で寝る
10日(木)午後:手術(4時間程度)、術後ICUへ
11日(金)午後:一般病棟へ移る(個室)
14日(月)夕方:4人部屋に移る
15日(火)お昼過ぎ:退院
・・・という具合。
11日に個室病棟へ移された時点ではまだベッドから起き上がれず、点滴が3,4本と鼻に酸素?をおくるチューブ、それと手術の傷口からドレン管が1本、それぞれ刺さっていました。ICUで処置されたカテーテルに比べれば大したことはないとはいえ、結構な痛みで微熱もあって、もうグッタリでした。
そんな時、あの地震が起こりました。14時46分ごろ。
身体が動かないだけで意識はハッキリしていて、ニュースで流れる津波の様子もずっと見ていました。頭は働いているのに津波に流される町の姿に何か悪い夢でも見ているかのようでした。
ツマや家族が帰り一人になった夜、体を起こして車椅子に乗って、トイレに移動できたとき、とても気が楽になりました。そのぐらいトイレに行けないのが厄介だと実感していました。
12日からは歩行もできるようになり、エレベーターを利用して売店まで行き、新聞を購入。広告もなく、テレビ欄を含めすべて震災のニュースで埋め尽くされていました。

12日~14日は回診、レントゲン、検温の繰り返し。日を追うごとにいろんな管も抜けていき、どんどん楽になりました・・・が、身体の解放感とは比例せず、地震、津波、そして原発事故と、この世の終わりでも見せられている感じがして気持ちは明るくはなりませんでした。携帯プレイヤーと5,6冊の本が気を紛らわせてくれました。北村薫の「スキップ」(新潮文庫)が一番のお気に入りでした。
ツマのほか、両親、姉と姪、会社(社長夫妻と同僚)、友人も見舞いにきてくれました。なぜか父親は毎日来てくれました。会社はこの年退社することになるのに(この時点では予定していなかったけど)、なんか申し訳ない気持ちは残りました。
翌日退院の決まった14日夜に食べたイチゴも忘れられません。ああ、こんなもの食べていいんだって。15日、なんだか慌ただしい雰囲気の中、病院を後にしました。外に出たとたん花粉症になりました。
中津川市のアパートに戻ると「一応とっておいた」と、1週間分の新聞を出されました。僕が売店で新聞を買ったのは1回だけ。ニュースも敬遠していたので、とっておいた新聞で知ったこともポツポツありました。
22日に仕事に復帰するまでは静養しましたが、動いたほうがいいと言われていたので外出もしました。傷口が痛い以外は問題なし。体重が少しだけ減りました。酒もしばらく飲みませんでした。

あの震災の日も含めてしばらく、岐阜県東部は天気もよかったようで、僕のいた病棟からも空が見えました。そして、窓から見える高速道を往来する車は自衛隊の車両が目立ちました。非常時を実感。
腫瘍は良性でその後の再発も確認されず、6月の再診を最後に病院通いも終わりました。
震災からの10年、長かった、短かったのどちらの意味でも「10年経ったんだな」という印象です。東北へは2年前に仙台に行っただけで、知らないことがたくさんあります。
手術の痕(縫い目みたいなやつ)はまだ残っています。脇の下から少し離れたところに、3箇所ばかり。これは消えないんだろうな。今まで考えもしませんでしたが、ある意味「あの日の記憶」が溶け込んでいます。そうでなくても震災のことは忘れ得ませんが、これからも記憶とともに生き続けたいと思います。
