自分のブログを読み返しているうち、2005年(平成17年)の5月と8月に、奄美群島のひとつ、沖永良部島を旅した記録がありました。記録といっても写真を数枚載せた程度で、旅先の詳細にはあまり触れられていません。
あれから14年経過して、前時代的な話をするのもどうかと思いましたが、そのうち5月の旅について、できる限りのことを思い出して書いてみようと思います(したがって、沖永良部島の情報としては全くと言っていいほど役に立ちません。単に暇な男が離島に一人旅したときの記録、としてご覧いただければ幸いです)。
ちなみに当ブログでも一番の長さです。なんでコンパクトにまとめるとかできんのかね・・・どうもすみません。
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2005年5月1日から、ゴールデンウィーク期間のうち3日間、沖永良部島に行きました。

当時は奄美大島の名瀬港からのフェリーを利用しました。航路5時間。飛行機でなら1時間もかかりませんが、時間には余裕があったし、5時間は長いとは思いませんでした。連休のわりには行きは混雑も少なく、2等和室(雑魚寝)でも大丈夫でした。テレビはBSしか映らず、ずっと大リーグ中継をやっていて見ててもつまんなかったので、本を読んで過ごしていました。


沖永良部島の和泊港に着いて、とりあえず街中を歩きました。何もありません。
そもそもまともに事前情報を仕入れず、まともなガイドも持たず、携帯電話こそありましたが情報は限られているので、多難なスタートを切りました。

レンタカーが先か宿へのチェックインが先だったか覚えていませんが、とにかく車は借りました。カーナビはありませんので、行き当たりばったりです。島に着いたときどこかで貰った1枚の島内マップを頼りに走り出しました。
この島は平たん、なだらかです。奄美群島は、奄美大島・徳之島のような山のある島と、喜界島・沖永良部島・与論島のような平たい島が混在しています。山がないと水不足になりがちで、沖永良部の場合は地下水を汲み上げて利用しているようです。それはともかく、平たんなので車の運転はしやすかったです。もっともちっとも風景が変わらないのには参りましたが。
車のラジオはFMだとNHKくらいしか入りません。お昼前だったかな、角松敏生がだるそうに話していました。

とにかく人が少ない。車はポツポツ通り過ぎる程度。
そういえばフェリーは鹿児島発那覇行きでしたが、名瀬や亀徳(徳之島)に比べて和泊港で下船する人はあまりいませんでした。いっそ那覇まで行く人のほうが多いのでしょうか。国頭小学校の「日本一のガジュマル」も、僕のほか2人くらいいたかもしれませんが、田皆岬や屋子母海岸といった景勝地では、人を見ることはありませんでした。交通の便がよくないこの島に、帰省でもないのに訪れる人はあまりいなかったのでしょうか。鍾乳洞は行かなかったので、もしかしたらこっちは大賑わいだったのかもしれません。多分そうじゃないと思うけど。

宿泊先のホテルは和泊町内にありました。少し古いですが特に不満もなく過ごしました。
テレビはケーブル。夕方前につけたらお笑い番組がやってて女のコンビが出ていました。面白かったと思うけど名前は忘れました。ロビーにはインターネットを利用できるノートパソコンがあって、とってもボロくて何度かフリーズしましたがそれでも重宝しました。
このホテルのあちこちに、沖永良部出身の歌手・大山百合香さんのポスターが貼られていました。知らねえよこんなねえちゃんとか思っていましたが、あとで聴いたら結構好きになりました。今も活躍されているのでしょうか。
朝夕は食事があったのでいいですが、昼はどうしていたのか、これまた記憶がありません。近くにスーパーが2件並んでいたので、そこで何か買ったかもしれません(先の写真では、部屋の中にカップ麺がある写真があったので、それを食べたのだろうか)。食事処も探せば少しはあるはずですが、要領が悪くてたどり着けませんでした。最終日の昼はほっかほっか亭(現在のほっともっと)でカツとじ丼を買いました。
夕べ時に自分で買った沖永良部の黒糖焼酎を飲みました。奄美のそれとは違って、硬水っぽいというか、ちょっと苦手でした。
夕食後は出歩くわけでもなく、いったい何をしていたのかさっぱり思い出せません。繰り返しますが、5月は一人旅でした(8月はツマと2人で行きましたが大不評でした)。何もしないのも旅のよさ、とは思うものの、本も1冊しか持って行ってないし、当時持っていたMP3プレイヤーは低ビットでも40曲くらいしか入れられず何度も聴けない、本当にどうして過ごしていたのか(しかも2泊)、不思議でなりません。まあ、そんな風でも、離れた場所で時を過ごすのはよいものだったのでしょうか。


海辺についてちょっと触れると、奄美大島が透明ながらも濃い青色が印象的だったのに対して、沖永良部で見た海は浅瀬が続くのか、沖縄でみたような淡い感じでした。屋子母海岸は砂地がゴツゴツしていました。白い砂浜も探せばあるはずですが、見かけることはありませんでした。
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そもそも沖永良部島には無目的で行ったわけではありません。2005年(平成17年)4月初旬、僕は鹿児島市で2つの企業の採用試験を受けました。どちらも奄美群島に支店(営業所)がある会社で、うち1つが和泊町にお店がある会社でした。どちらも合格して、結局奄美大島に営業所を持つ会社を選んだので、沖永良部島への再移住には至りませんでした。そもそもそれまで沖永良部に行ったこともなく何も知らない場所でしたが、この就職活動を機に「住んでいたらどんな感じなのだろう」という興味で、旅先に選んだのです。
その感想は「暮らすにはちょっときつい」というのが率直なところです。本当に何もない。当時和泊・知名の両町合わせて15,000人程度住んでいる、辺境とまではいかない島で、基本的な生活への支障はほとんどない筈ですが、それでも不便を強いられることは想像に難くなく、途中で音を上げるんじゃないかな・・・と思ってしまいました。奄美大島に住んでいて、さらにそう思ったのだから、よほどです。結果論から言えば奄美大島だってその3年後に撤退したわけで、もし沖永良部を選んだとしても、いい人たちや仕事に恵まれていたら、今現在、沖永良部移住15年!とか言っていた可能性は、わずかにあります。
よく旅に行くと現地の方と話して触れ合いを楽しむ、というのがあると思いますが、僕はそういうのが苦手で、今でこそ普通に話せるようになりましたが当時はコミュニケーションとか皆無でした。会社勤め、近所づきあいでも人と話すのが苦手になっていたし、敢えて旅行で人格替えるとか無理な話でした。せめて旅のときぐらいは気にせずに語らえばよかったというような強い後悔はありませんが、今こうやって物書くときに思い出せるような話が少ないのは、ちょっと残念なことかもしれません。
いつかこの記事のワードが検索にひっかかって「沖永良部ってどうよ?」と思われた方が読まれてガッカリしたら申し訳ないと思います。鹿児島どころか本州の山奥に居を構えてしまった以上、次に沖永良部に行くことはないと思うのですが、僕自身の備忘録として載せさせていただいたことをご容赦いただければ幸いです。
