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漂流者たちの楽園

 「漂流者たちの楽園」(横田一・著 朝日新聞社)という本を読みました。奄美大島の宇検村に居住していた「無我利道場」という入植者グループを題材としたルポタージュです。

(以下枠内 ウィキペディアの宇検村記事を転載、一部内容訂正)
70年代、村内の焼内湾にある枝手久島に石油備蓄基地建設を計画したことに端を発し、反対派住民の招きによって、当時鹿児島県トカラ列島諏訪之瀬島にコミューンを築いていたヒッピーが宇検村に移住し、反対運動を展開。建設計画の撤回後、入植者グループは村内の久志集落に定住し、コミューンを「無我利道場」と名付け共同生活を営む。1987年頃から入植者グループの子供達が地元の小学校に登校することを止めたことなどから地元住民との関係が悪化しはじめ、村議をはじめとする村の有力者によって「無我利道場解体村民会」結成。
88年、東京の右翼団体の代表者が無我利道場の母屋の所有権を取得し、街宣車で入植者グループの追い出しを図り始めた。(90年にはこの街宣活動について軽犯罪法違反で構成員が逮捕。)、同年10月30日右翼団体の構成員がダンプカーで無我利道場に突入し母屋を破壊、入植者1名に重傷を負わせる(建造物損壊罪、傷害罪で5名が逮捕)。

89年「無我利道場」の共同生活は解散、各世帯での生活を始めるも、その後も追放運動が続けられたため、1990年7月には入植者グループが追放派の住民に損害賠償を求める訴えを提起。91年、追放派の住民らが「平穏に生活する権利を侵害されている」として入植者グループに損害賠償を求める訴えを提起。93年、鹿児島地方裁判所名瀬支部において入植者グループと地元住民との和解が成立、入植者グループが地元社会との相互理解に努力すること、地元住民が追放運動を停止することなどが合意された。

さほど多くもない村民が「入植者グループ」「追放派」「追放運動拒否派」に分かれ、また右翼団体や人権運動家らの島外者も入り乱れ、村内に大きな禍根を残した事件である。



 僕が奄美にいた頃にも、無我利道場の名前だけは聞いたことがあって、宇検村の方も「いやあムガリ(の問題)はすごかった」と言っていたのを覚えています。
 ただ、詳しいことは殆ど知らなかったし、現在も書籍などの資料、インターネットの情報も少なく、今まで無我利道場の話に積極的に触れたことはありませんでした。なんとなく宇検村のことを思い出してウィキペディアで引いてみたら上記の話が載っていたので、そこで紹介されていた「漂流者たちの楽園」を読んでみた、というわけです。
 この本自体も、騒動が解決する前の1991年(平成3年)の出版で、古いです。まだ「Iターン」という言葉がなかった頃。中立的観点が欠落しており、登場する無我利の人達、さらには著者自身のあまりに「純粋過ぎる」部分が最後まで気になりましたが、事の全容把握という意味では、よい読みものだと思いました。


 僕はヒッピーでも市民活動家でもありませんが、それまでの社会生活に疲れてしまった果てに離島移住を試みた、という意味では、島に理想的な生活スタイルを求めて移り住んだ無我利道場の人たちと通じる部分はあったのだと思います。まあ僕の場合は町村部の集落ではなく名瀬市街を居住に選んだ時点で、いろいろ中途半端ではありましたが。

 一方、無我利道場がいわゆる「外来種」で、かつてより集落で暮らしていた人々にとって奇異な存在であり、善し悪しではなく強い軋轢を起こしていただろう事は想像できます。僕の場合は病気に勝てなかったというのが「移住生活失敗の本質」だったので事情は異なりますが、それでも「地元で生活を続ける」に比べて、離島での生活の難易度が遥かに高かったのは事実でした。


 いろいろ身につまされる思いで、この話に触れているところです。
 島から離れて4年経った今でも、まだまだ総括できない奄美生活・・・とはいえ、あの頃の苦味を糧にしつつも、「解放された時空間」は、確かにあったと思っています。

漂流者たちの楽園_c0057821_08563631.jpg

何度か載せたことがある、宇検村のタエン浜。
久志集落は、この海の反対側にあります。奄美のカニバサミ。
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by OuiOui1974 | 2012-07-05 22:17 | 日々の出来事 | Comments(0)

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